スガイ打楽器製作所

楽器との出会いから工房立ち上げまで

  • 1995年頃
    • 中南米諸国を2年半ほど放浪。楽器への関心は全くなかったもののメキシコにて打楽器の魅力にハマる。それまではまれにタイコを持ち合歩き旅をしている人間を「わざわざそんなモノ持ち歩て、バカじゃないかね・・」と内心思っていた。
  • 2000年
    • 30歳にて静岡県藤枝市の花火会社に就職。アフリカのジャンベなど打楽器熱が燃え上がり、一時はサンバチームなどにも所属。
  • 2005年
    • 旅行で訪れたスペインはバルセロナの路上にて、昨今大流行の「ハンドパン」を演奏している白人青年に出会うが、当時は優しい音色などにはまだ興味が持てず。
  • 2007年頃
    • たまたまネットで見かけた円盤状の打楽器を発見、すぐに欲しくなる(これが金属製のスリットドラムでした。ベルファイヤ(?)そんな名前でアメリカの家具職人が作ったとか、あやふやな記憶)
    • すでに打楽器作りを始めていたり、ガスボンベを素材に使っていたりしたため、その円盤も「ボンベで作れる」と直感。ガスボンベの加工を依頼していた鉄工場に駆け込み、円盤楽器製作の相談をする。
    • 「リサイクル楽器」とよく言われますが正確には「アップサイクル」というものになります。(リサイクルは元のものに戻るものですがアップサイクルは形を変え新たな価値を与えたものになります)
    • 仕事の合間に作業を続けたり、鉄工場の親方と試作を繰り返したりと楽しい時期を過ごす。
    • 鉄加工に関してはずぶの素人だったが、「自分で加工しなければ満足のいくものは試せない」とアパートの一室に防音箱を設置。箱に潜り込み、夜な夜な切断や溶接を繰り返す。

花火職人時代

「オリャッ!」と2つをくっつけます

花火の筒で作った太鼓

左奥の1番大きいのがいわゆる「尺玉」の筒です

初めての鉄加工

この狭い空間で溶接をしていました

退職から専業へ ~藤枝時代~   《 当時のブログはこちら

  • 2011年9月 11年勤めた花火開所を退職。
    • 遡ること約半年前には、「静岡新聞」や「ピエール瀧のしょんないTV」などに取り上げられるも、そのチャンスを生かせず
    • 退職後の9月にも全国放送の「はなまるカフェ」でも紹介されるが、いずれにしても楽器が中途半端の出来でチャンスを生かせず
    • プロパン楽団(スガイ鉄工所)を結成すべくメンバーを集めてくれた方がいたものの、楽器が中途半端でチャンスを生かせず
  • 2012年初頭

     

    「プロパンレディス」結成

    • テナントの大家さん初め、お隣の床屋さん、お向かいの自転車屋さんの奥様方が音色に惹かれて工房でのプロパノータレッスンがはじまる.
    • 全員楽器未経験者(お孫さんのいる方々)。
    • NHK静岡放送へプロパンレディスと出演
  • 2015年?秋
    • 父が他界し、実家には母一人となる。親族含めて唯一フラフラしていた自分が「母も一人では寂しかろう」と思い、千葉に帰ることを決意。

藤枝時代には静岡県内の各テレビ局を始め、新聞やラジオでも取り上げていただけました。しかしメディアに取り上げられるなどということは全く想定も期待もしていなかったため、十分その恩恵を利用できたとは言えませんね。

アクシデント的な事象にすぎないととらえていたため、記録も特に残していませんでした。

私自身は工房にてほぼ引きこもっていたようなものでしたが、工房は駅前にあり、友人も近くにいたためよくフラリと立ち寄ってくれていました。

夏は相変わらず花火の仕事に従事し、それ以外はプロパノータに専念。

何とかやってはいけていましたが、不安定な状態でした。

今でもそうですが、自分には作る以外の重要要素である「売り込む、宣伝する」をすぐにおろそかにしてしまう悪い部分がありますね。

引きこもり、不安定ながらも藤枝時代は良き思い出です。

今ではプロパンレディスも人数が増え、デイサービスでのボランティア演奏や地域の催事などに呼ばれのんびり練習する間もないそうです。

藤枝時代の写真がほぼない。。。上の写真は「プロパンレディス」が広報藤枝の表紙を飾った写真です。

 

東京へ 

  • 2016年9月 
    • 夏の終了とともに拠点を東京に移す
    • HPリニューアル
  • 2019年9月
    • 屋号を変更
    • HP引っ越し

日本一のマーケットである東京に移転することで、大きな期待を持っていました。

当初は東京ではなく地元の千葉県で場所を探していましたが、やはりマーケットの大きさも考慮し、東京葛飾区に新たに工房を構えることにしました。

葛飾区に決めたのは毎年葛飾区の花火大会へ打ち上げに来ていたこと、父の出身地であること、イメージ的に下町で町工場が多そうなこと。

以上の3点から無理やり「ご縁」をこじつけたけど、実際はほかに適度な店舗が見つからなかったということかな。

理想としては外から中が見えること、製造スペースと実際に楽器で遊んでもらうスペースが分かれていることが絶対条件でした。

今の店舗はいわゆる「店舗付き住宅」なので理想的。

1階で作業(外から丸見え)、2階で楽器いじり。

興味がある人や近所の人も立ち寄ってくれれば、と期待していましたが物事は自分の思う通りには進みません。

フラリと覗いている人はいても、僕から声を掛けることは滅多にないです。(覗いている人も僕に声を掛けにくいでしょうが、僕も声を掛けにくいのです)。

藤枝時代のように、近所に友人がいて「ちょっとヒマつぶしに」というようにはならないですね。

 

 

工房外観

移転後すぐの綺麗な頃

細かい作業はこちらで