工房の歩み — 音を探し続けた旅から、今へ

SUGAI PERCUSSION の楽器は、
「音の揺らぎ」「素材の響き」「手仕事から生まれる個性」を大切にしながら、
一つひとつ時間をかけて作られています。

ここでは、私が金属製打楽器と出会い、工房を立ち上げるまでのストーリーをまとめました。

1995 中南米を放浪。

思いがけず“打楽器”と出会う

20代の半ば、2年半ほど中南米を放浪していた当時、
私は“楽器”に特別な興味はありませんでした。

旅先でタイコを持ち歩く人を見ても
「わざわざ重いものを…」
と内心思っていたほどです。

しかしメキシコで出会った打楽器のリズムと熱気に心を掴まれ、
そこから一気に打楽器の世界に惹きこまれていきました。

演奏に没頭した時期(2000年前後)

帰国後、静岡県藤枝市の花火製造会社に就職。
同時にジャンベを中心とした打楽器演奏に深く没頭します。

サンバチームへの参加など、
打楽器を「叩く側」としての時間が増えたことで、

  • 音が前に出すぎる違和感

  • 合奏の中で埋もれる音

  • 使われ続ける音、消えていく音

そうした感覚が、
少しずつ身体に残っていきました。

2005 ハンドパンとの出会い(ただし興味は持てず)

スペイン・バルセロナの路上でハンドパンを演奏する青年に出会いました。
しかし当時の私は、
“優しい音色”よりも“打”の要素のある楽器に惹かれており
ピンと来ませんでした。

2007 スリットドラムとの衝撃的な出会い

ある日、ネットで円盤状の打楽器を見つけました。
アメリカの家具職人が作ったというその楽器に
強烈に心を奪われました。

そして直感しました。

「これは自分でも作れる」

花火の仕事でお世話になっていた鉄工所へ駆け込み、
円盤楽器の製作相談を開始。

自分で加工しなければ満足のいく試作ができないと考え、
アパートの一室に防音箱を作り、
毎晩のように切断・溶接を繰り返しました。

よく “リサイクル楽器” と言われますが、正しくは “アップサイクル”。
素材に新しい価値を与え、音に変える仕事です。

藤枝時代(2011–2015)

引きこもり工房と、地域とのつながり

2011年9月、11年勤めた花火会社を退職。
実は半年前からメディアへの露出が増えていましたが、
当時はまだ楽器の完成度も不十分で、
そのチャンスを活かしきれませんでした。

退職後、地元の方々との出会いから
「プロパンレディス」というグループが自然発生し、
工房でのレッスンが始まりました。
全員が楽器未経験、年配の方々ばかり。

この頃はNHKをはじめ、静岡県内のテレビ局や新聞にも取り上げられ、
工房には多くの人が訪れ、にぎやかな時間が流れていました。

一方で、私は“作ること以外”が苦手で、
販売や発信はほとんど出来ていませんでした。
不安定ながらも、振り返ればあたたかい日々でした。

2016 拠点を東京へ移す – 新たな挑戦

夏の花火シーズンが終わったタイミングで、
工房を東京・葛飾区へ移転。

 

理想は「外から制作が見える工房」で、
今の店舗は“店舗付き住宅”という理想的な環境でした。
1階は制作、2階は試奏スペース。

ただし、藤枝時代のように気軽に人が集まる環境とは異なり、
こちらが声を掛けるタイミングも掴めず、
静かな時間の中でひたすら制作に向き合う日々が続きます。

2019–現在 屋号変更、新サイト、そして今

2019年に屋号を「 Propa No-ta.com 」から「スガイ打楽器製作所」へと変更。


より明確に“金属製打楽器の工房”として再スタートしました。

今もなお、金属の響き・ノイズ・倍音の揺らぎを探りながら、
一つひとつの楽器に向き合っています。

藤枝でも、東京でも、
どの時代も“作ることに没頭する”という姿勢だけは変わりません。


おわりに

プロ向けの完全な精度でもなく、
大量生産の均質さでもなく、

素材が持つ声や個性に寄り添いながら “唯一の響き” を探す。

これが SUGAI PERCUSSION の楽器づくりです。

 

もしあなたが、
打楽器奏者として
「これは使えない」「ここは惜しい」
と感じるなら、
その視点こそ歓迎します。

この工房は、
そうした違和感とともに
続いてきました。